【コロナ以後】映画の未来と理想郷、僕とあなたのマニフェスト。

【コロナ以後】の時代に映画芸術に希望があるのか?
2020年、新型コロナウィルスの世界規模での蔓延で、わが日本人も行先の知らない世界のただなかで生きています。

緊急事態宣言、ロックダウンなどで行動が制限されるなかで、私たちは、これからどうやって生きていったらいいのか。

世界が変わる、いや変えなければいけない時を私たちは生きています。

三密(密閉・密集・密接)を避けなければいけない時代にあって、映画館、日本映画は滅びなければいけない運命なのか。

それともなにか他の新しい概念が生み出されていくのか。

こうしたパンデミック下において私たちの時代でどのように生きていくことが最良なのか。

このページでは私たち、そしてあなたのような日本映画を愛する人々、さらにいえば芸術で生きていきたい人々は今後どのように生きていけばいいのかを最大漏らさず記載していきます。

世の中はいまだ新型コロナウィルスの影響が甚大でいつ終息するかわからない状況です。

もしかしたら生きていくだけで精一杯なのに仕事とか考えられないという状況かもしれません。

「濃厚接触」が不可能となればリアルで仕事できないと途方にくれているひともいるでしょう。

映画館が存亡の危機となり、日本映画、映画そのものがなくなるという絶望に襲われているひともいるかもしれません。

たしかにパンデミックはある意味私たち人類の生き方の方向性を修正する力を持っています。

が、私たちの存在を揺るがすものではありません。

もしかしたら私たち人類は行き過ぎた面もあった。だから軌道修正も必要なのだと思うべきです。

世界何十万人と死んでいくなかで、生き残った私たちは、僥倖であると思うべきです。

わが日本は膨れあがった世界を尻目に、すでに人口減少時代に突入していました。

どうにもこの世界は数字の論理で物語ることが好きなようですね。
数が減る=不幸せになる、ことはないわけです。

資本主義社会はある意味において無駄を大量生産してきたともいえるでしょう。

なくてもいいものも生産する、欲望のままに無限大に消費するために。

不要不急でないもの、生活に必要不可欠ななものであることが、この新型コロナの時代では明確に振り分けられようとしているかのようです。

では芸術はいらないのかという命題なんですが。

もちろん、NO!です。

なぜなら人間にとって何のために生きているのかという問いこそ人間のアイデンティティでもあるからです。

間違ってはならないのは、新型コロナ時代で突きつけられているのは、芸術そのものの存在ではなくて、芸術のあり方についてなのですよね。

なので、日本映画は死ぬことはないのだし、もちろん映画そのものを否定することもない。

それよりも大事なことは、日本映画は今までの状況がどうだったのかが問われているわけです。

パンデミックが一つあれば木っ端微塵になる、映画館というものがそもそも今のようなもので良かったのかということです。

ワーナーマイカルが1993年にやってきてから27年もの間、映画館の革新はなかったのです。

シネコンが世界標準となっていました。それにあぐらをかいていたのは否めないでしょう。

画一的な映画館に魅力を感じないひとも多いのではないでしょうか。

かつての絵看板!のあった昔ながらの映画館が懐かしいひとも多いと思います。

が、いずれにしてもパンデミックが起こった以上、映画館もその対応策が求められるわけです。

で、私たちは今後生きていくなかでどのようにしていけばいいかを今から語ります。

日本人総芸術家の時代がきた
これからの時代はどんどん産業構造がぶっ壊れていくことでしょう。

新型コロナウィルスはその後押しをするかのようにやってきたかのようです。

そろそろ時代の転換点に差し掛かったからこそ出現したのかもしれません。

あらゆる産業がぶっ壊れて、そうして再びリバースされる運命にあるのです。

それで無駄なものは排除されてスリムな産業構造となる。

日本人は肥満な産業構造で無駄なものを排出しながら生きてきたのです。

だからいずれ近いうちに新陳代謝を余儀なくされたのです。

それが今というわけです。

日本映画産業も同じです。

観客動員数も興行収入も増加しないのにも関わらず、もちろん多少の増加はありますが、構造を変えずに、他産業とつるむことで肥大化を試みてきたわけです。

醜いのです。

これからの時代は美しく生きることが要請されています。

だんだん日本人の価値観が進化しつつあるのも理解されるかもしれません。

さまざまな災厄を経験した日本人は、すでに資本主義社会の欺瞞を感じているはずです。

二極化の時代。

貧富ではなくて、美醜が問われる時代です。

美しく生きるひとが豊かになる時代と言い換えてもいいと思います。

では美しく生きるとはどういうことかといえば、分別を弁える、善悪を見極める、そして自分を生きるということです。

自分を生きる。

このほんと自明な事柄が理解できていないひとは多いのです。

よくひとは幸せになりたいと考えると思います。

しかし、生まれてきたことを幸せに思わないとすればなんでしょう。

今が不幸せだと思ってるとしたらもったいない話なのです。

日本人として生まれたことにまず感謝をしないといけないのです。

それくらい誰でもできますよね。

だから願いなんていらないのです。

それよりも今あることを感謝するそれだけでいい。

私はコンテンツ・ビジネスを提唱していますが、日本人こそ芸術作品だと考えるからです。

日本人は今のまんまで美しいのです。

別に卑下することもないし、絶望することもない。

日本人として、らしく生きれば良いわけです。

さらにいえば日本人の存在じたいが芸術なんだから、人生そのものが芸術とも言えるわけです。

私がいつも日本人総芸術家の時代と言ってるのはそういうところです。

なので日本人はみんな芸術家として生きていけばいいのです。

資本主義社会の次は芸術主義社会でいいのではないでしょうか。

コンテンツ・ビジネスと「ビジネス」と名前はついていますが、実際、生きることと同義です。

1945年の大東亜戦争での敗戦で、日本人全てはPTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかったようなものでした。

そのあとの75年間、経済大国へと上り詰めたわけですが、日本人は本来の価値観とは違う畑を疾走してきたのです。

日本は古来その精神性が尊ばれてきたお国柄ですから、やはりどうしてもうまくいかないのは当たり前でした。

戦勝国のアメリカによって敷かれたエコノミック・ロードです。

そろそろ日本人が甦る時がきているのではと、ここ30年にわたる日本の歴史を紐解いてもそう思います。

日本映画産業は50年前に死んでいた
日本映画は1971年という、日本万国博覧会が開催されて、日本がこれからという時に、構造は破綻していたのです。

映画は時代の先端を走っていた時代ですから、すでにその兆候があったということです。

大手メジャーだった、大映と日活が倒産するという事態は、日本映画が斜陽といわれるようになったのと重なるというわけです。

上記二社は映画製作を積極的にやっていました。他のメジャーはすでに外部か、またはそれ以外の業態へと移行などしていたのです。

つまりこの二社は映画とともに滅んだといっても過言ではありません。

映画産業はその凋落をテレビのせいだと考えていたのです。

もちろんテレビの普及率が上がってきた時代ですし、かつては娯楽の王様だった映画ですが、すでにいろんな娯楽が出始めてもいましたから。

しかし、映画産業が凋落したのには他の理由がありました。

それが、産業構造の欠陥という問題です。

映画はキラーコンテンツとも言われます。

ものづくりです。

製作が中核となるはずのところでしょう。

まさかコアを売り渡しますか。

コアとは魂です。

なぜAppleのブランド価値が高いのか。言わずもがなで、トータルプロデュースしているからです。

かつての日本映画産業の黄金期もそうです。

圧倒的な価値があったわけです。

いま溝口健二監督の『近松物語』を見るためなら1万円出しても行きます。

映画は独自のブランド価値を喪ってしまったのです。

映画館でみる映画と、スマホでみる映画は同じである。

誰もがそう思いたくなってもおかしくはありません。

ではこの【コロナ以後】の時代、それでは映画は、いや映画館は死滅するでしょう。

しかし、その予兆は今に始まったことではないのです。シネコンがやってきた時からわかっていたことですから。

かつての映画体験とは、映画作品×映画館という図式だったのです。

梅田スカラ座で観た黒澤明監督の『赤ひげ』は生涯忘れないでしょう。キャパ937席でたった10人の観客だったからではないですよ^ ^

映画館と作品が掛け合わさると、そこには記憶のなかに「異常」空間が生まれて永久に刻まれるわけです。

映画体験とはそういうものです。

なので画一的なシネコンスタイルはそのこと事態で、映画の、もっといえば映画体験の死であったのです。

映画好きにはわかることです。

それからの映画興行は浮動層をターゲットにせざるを得なくなったのです。

もちろん当たればいいのですが、そうでないものは惨敗という、ここでも二極化は進行したのです。

さらに追い討ちをかけたことは、映画があまりにも製作されすぎて、見たいひとにお届けできないミスマッチが起きていることです。

テレビや通信やスマホなどに提供することばかり考えて、数打ちゃ当たる精神で作り続けた結果です。

映画館に観客がいなくてもいいんです。あとで収益が回収されるのだから。

こうして映画館の存在じたいが疑問視されるところで今回のコロナで映画館は立ち行かなくなってしまったのです。

つまり映画館ていらないよね、という声があがってもおかしくはない状況となってしまったわけです。

日本映画産業には希望しかない理由とは
従来の産業は企業が担ってきました。

しかし、令和、特に【コロナ以後】の時代では、個人さらにいえばコミュニティがその代わりになります。

コミュニティとは連携と訳してもいいし、理想郷と言ってもいいでしょう。

私は同時多発的にコミュニティが勃発していくイメージを抱いています。

企業が瓦解しコミュニティで個人がつながる時代です。

サラリーマンという言葉も死語になる時代なのです。

今までは東京に全てが一極集中し、あらゆる産業が東京に中枢を構えました。

これからはローカライズ、ドメスティックな世界になっていきます。

地方創生です。

国造りともいえる。

日本映画産業はようやく構造を改革するチャンスが訪れたといえるでしょう。

日本映画はだめだとかいう論説にはもう与しないことですね^ ^

希望しかないのですからね。

明治維新から155年。ようやく日本にも令和革命が訪れたことを素直に喜びましょう。

人口減少や少子高齢化を問題視するひともいるかもしれません。

しかし、江戸時代は人口3000万人で推移したのです。

人口が減ったとしても8000万人おれば充分です。

そうやってネガティブ思考を植え付けることを仕事にしている人々がわんさといます、これもシカトしましょう。

これからは内需拡大です。産業拡大策です。

中抜きもなしです。

たとえば映画産業の配給システムは古い。半分以上はこの腐った構造で成立しています。

それも要りません。

ドメスティックに全てを完結させていく。

新時代の醍醐味です、希望しかありません。

僕らのマニフェストとは
今後10年で、私たちが実施する行動計画は次の三つです。

☑️2025年の大阪万博で日本発のSF大作を製作し、同時に新しい規格外の映画館をお披露目する

☑️大阪ベイエリアに中枢を据えた関西広域映画産業を展開する、さらに日本全国にもコミュニティを作っていく

☑️九州の南の島を映画のみならず芸術家が集い、衣食住をともにする、制作工房「村」を建設する

上記を完成した暁には現在の映画産業と互角かそれ以上の規模を目指します。

実は東アジアで連携してハリウッドに対抗する映画圏構想もあるのですが、新型コロナが終息したとしてもしばらくは実現するのは困難でしょうね。

さて、ここまで読んでいただけてありがとうございました。

あなたもぜひ参加していただけると泣いて喜びます。

私の趣旨に賛同していただける方、映画や芸術をこよなく愛している方、あらゆる芸術で詩命を全うしたい方、ぜひお待ちいたしております。

どうぞ末長くよろしくお願いします!^ ^