コンテンツビジネスの全貌

コンテンツビジネスの全貌

映画でお金を稼いで豊かな生活をしていきたいあなたへ

もう大手映画メジャーの力学も必要もなく芸能事務所に所属することもなく、個人と個人が集い合うだけで映画が作れてしまう。

副業をしながら自主映画を片手間にすることもありません。

もう誰かを頼ることもなく圧倒的な映画システムを構築することができるんです。

もう制作会社に搾取される必要もありません。あなただけの独占的映画ブランドを構築してあなたのファンのために映画を作っていきませんか。

このページではその方法を余すところなく全てをお話しします。

時間をじっくりとっていただき楽しみながらお読みください。

私たちが生きている2020年という現在は、とても歴史的な時間であると思われます。

世界は変わる。
そうして、日本が変わる。

そんな瞬間を私たちは生きています。にもかかわらず大半の人々はそのダイナミズムな感覚を感じることができないのではないでしょうか。

それは私たちの手の届かない、そうして目にすることのないところで、いままさに世界は変えられているからです。

世の権力が世界を変える。

それが私たちにとって良い方向であるのならば、とやかく言う必要はありません。

しかし、世の中は確実に私たちにとっては悪い方向へと向かっていっています。

たしかにこの世の中はものが溢れかえって、一見豊かな世界にはなりました。

しかし、幸福感はあるでしょうか。

もしかしたら欠乏感のほうが大きいかもしれません。

それはいろいろなものがあるけれども希望だけがない世の中です。

希望がないのに、ものがいっぱいあっても幸福になれるわけはありません。

大東亜戦争以前、奴隷制度というものがありました。

西洋列強は、アジア、アフリカを手当たり次第植民地化して、人々を奴隷にしていったのです。

それに似たようなことが現在でも水面下で行われているのです。

歴史は繰りかえす。

奴隷制度は撤廃されたけれども、資本主義社会というある意味お金のあるものとお金のないものとで貧困を生み出す奴隷システムが形を変えて今もいきているというわけです。

そうしたお金のある層のために社会は動かされているということに私たちは気づくことがまず先決です。

さて前置きはこれくらいにして。

私たちはこれから個人の新しい生活様式を取り入れて生きていこうとしています。

奴隷制度の社会システムを逸脱して、新しいライフスタイルで生きていく。

コンテンツビジネスという名のもとに。

大衆社会はさまざまな娯楽を生み出しました。

そのうち、娯楽の王様とかつては言われた映画を対象として、これからは生きていく選択をしていきましょう。

映画というコンテンツビジネス。

映画もまたインターネットの恩恵をうけて、これほど映画が見られていることはなかったでしょう。

しかし、これほど映画という歴史が埋もれてしまっている時代もなかったでしょう。

映画はもう死んでいる。

誰もがわかっているのに、誰も口にすることをしない。

そうです、日本映画はすでに遺物です。

現在氾濫している映画というものはあたかもゾンビであるかのように徘徊跋扈しているわけです。

手塚治虫の「マグマ大使」に目覚めてみるとミュータントな世界になっていた。というようなことがありましたが、まさしく現在の映画は映画のように見えるもの、です。

でも、これはもちろん現在の映画のようなものを作っている方々を非難しているわけではないのです。

なぜなら私の言っているのは、そもそも論として、カテゴライズの問題なのです。つまり、それが、映画かテレビドラマかが重要なのではなくて、「動く絵」なのか「説明する絵」なのかがポイントなのです。

かつての映画は活動写真と言われたように、物語なんかどうでもよく動けばなんでも良かったし、感動もし、面白かったわけです。

しかし、現在では動くのは当たり前で、なぜか物語を語るという方向になってきているわけです。

映画を語るのではなく、物語を語ることが映画鑑賞ということになっているのです。

もちろん物語はあればなおさら感動を引き起こすことは間違いありません。

話が脱線気味となりましたが、この小論は「日本映画を正しい軌道を再び取り戻す」ことを主題として書いていきます。

さらに個人が映画というコンテンツビジネスをどのようにして動かしていくのかを考えていこうという試みです。

これをもとにして実際私自身がコンテンツビジネスを立ち上げて結果を出すまでのプロセスともなっていますので、ぜひ楽しんで読んでいってください。

個人が商業映画を作れる時代だ

永久映画監督宣言。日本映画産業をアップグレードする

映画の革新をめざして

この電子書籍はあなたを永久に映画監督へと導くために執筆しました。

そうして映画産業をアップグレードするというのが目的です。

さて今日からあなたは永久映画監督として生きることを選択したわけです。

覚悟を決めて本文を読み進めてください。

従来次回作が未定の映画監督は映画監督とは呼びません。

このようにいえばお怒りになられる方もおられるかもしれませんね。

しかし、現在の映画環境はあなたに次回作を与えるものではないのが普通です。

であるから本書を読んで、ぜひあなたの潜在能力を最大限に発揮できる環境を作ってほしいと願います。

誰にも依存しない居場所を作る戦略を教えますので、最後までじっくりと読んでください。

とても楽しい世界です、ご期待くださいね。

日本の映画監督はエンタメ産業の奴隷です。

いや日本だけではなく、世界のほとんどのエンタメ産業に組み込まれている人々はみんな奴隷といっていいかもしれません。

あのジョージ・ルーカスにしろ、スティーブン・スピルバーグにしても、そうなのです。

それは世界がある大きな意思をもって動いているからともいえます。

それがいいとか悪いとかの問題ではなくて、ただ世の中の趨勢がそういうふうになってるだけのことです。

裏を返せば、それが資本主義というカラクリでもあるわけです。

もしあなたが現在の状況に耐えきれなくなっているとするなら、センスがいいです。

この世の中は2012年を契機として、二極化に振れてきているのをご存じですか。

支配する側につくか、支配されるほうにつくか、です。

私たち支配される側の人間に残された選択肢は次の二つです。

資本主義という魔物の意思に従うか、従わないか、という二択です。

なぜこんな話を冒頭に持ってきたかといえば、

それは、日本映画産業がすでにこの支配する側の意思に取り込まれているからに他なりません。

日本映画産業は自らの意思とは関係なく、ある権力の意思に従わざるを得ない環境となっています。

この書籍ではあなたが継続的にそうして永久に映画監督として生きていけるための方法論を書きました。

もちろん自らの意思で行動するのです。

この書籍のアイデアの始まりはもうかれこれ38年前に遡ります。

私が黒澤明監督の『七人の侍』を観てより日本映画を復活させることを人生の主題とした時に全ては始まりました。

1981年当時の日本映画は一時期の斜陽凋落から角川映画の繁栄で少しは持ち直してきている時期でした。

しかし、今から思い起こせば、繁栄はすでに幻想でした。

映画観客数の最低だった1993年から多少増加したのはシネコン特需によるものでした。

映画の繁栄が観客数と密接なつながりはないとしても、映画が斜陽であることには変わりはありません。

1994年その年にできた、KYOTO映画塾という松竹撮影所内にできた映画の学校も、

日本映画再興という美辞麗句よりかは映画人の救済措置という方が正しいです。(映画学校と名のつくものはほとんどが多かれ少なかれそれだと思われます)

私はそんな映画の学校の出身ですが、ほとんどが映画界には残っていないと思います。

というよりも日本映画界というものがそもそも存在していないのだから当然です。

業界人の誰もが認めたくない事実だろうと思います。

しかし、映画会社は誰も本気で日本映画をなんとかしたいとは思ってはないのだし、そもそも日本映画の志を持ち合わせてはいない人々ばかりなのだから。

そもそも論として日本映画は存在などしておらず、世の中にあるのは映画のようなもの、デジタルコンテンツとしてエンタメ産業の一翼を担っているものに過ぎません。

語弊があるのをお許しください。

私は1994年から2011年まで、空白期間を除けば、約10年間映画興行の仕事をしてきて確信していることがあります。

それは日本映画が駄目になったとするのなら、それは日本映画のクォリティの問題ではなくて、産業構造じたいが、現代に合わなくなったのだということです。

これは私が38年前の閃きと合致するのですが、日本映画は産業構造さえ適正なものに取り替えてやれば、全然ハリウッドにも太刀打ちできるし、それ以上に日本を牽引する産業に変貌するはずなのです。

本書は私の38年という長きにわたる推敲が結実したものです。

ぜひ日本映画を愛する全ての人々に読んでいただきたいと思います。そうして何よりも映画監督のあなたに。

そうして願うらくは私とともに明日の日本映画のために活動してくれることを願います。

永久映画監督宣言をする

かつて世界を驚かせた日本映画はすでに産業基盤は崩壊し、個人の才能だけが残っているだけの焼け野原の状態です。

映画はエンタメ産業の一つとして活路を見いださざるを得ない状況となりました。

映画で仕事をしたい場合、エンタメ産業のなかで生きるか、または個人で自主映画を撮るかの選択肢しかありません。

しかし、私はあえて提案します。

日本映画産業(言い換えるなら大手映画会社)は撮影所システムが崩壊してからというもの、商業映画か自主映画というカテゴリで日本映画産業を規定しました。

もちろん、自分たちは商業映画として差別化を図ろうとしたわけです。

もはや日本映画産業はエンタメ産業に屈したも同然です。日本映画のオリジナル性は喪失したといっても過言ではありません。

これからの選択肢は映画オリジナルか、エンタメ産業かの二者択一と宣言します。

放送産業を頂点としたエンタメ産業は映画産業を含めた護送船団方式です。資本関係を見れば明らかです。

では私の提案する映画オリジナルとは何か、といえば、全てが映画で完結するというものです。

いまさらそんな夢物語がと誰しもが思っているので、誰も考えたこともないはずです。

文明の利器インターネットが登場することによって、いったんは崩壊した日本映画を再生させるチャンスが到来していることも実際のところ誰もわかってはいないのです。

ではこうしたチャンスではあるのに、なぜ日本映画産業は食いつかないのか、これは当たり前で、自己崩壊させざるをえないからです。

現在のシステム構造を再構築する勇気がない。
すれば今の利権にしがみついている者は足下からその地盤が崩れ落ちるからです。

明快な理由があるわけです。

だからインターネットを本気で活用することもせず、ただデジタルコンテンツと嘯いているわけです。

しかし、インターネットは日本映画を本質的に再生させるツールなのです。

しかもかつては映画5社の独占だった産業を、個人単位で再編成させることができるという夢のような話にもかかわらず、にです。

いよいよ日本映画の時代が到来しているのです。

映画が水ものと言われる所以は、大衆映画時代で大量生産していた頃の名残です。

人間には千差万別の趣味趣向があるわけで、どうしても見たいものは見たくなるのが人情というものです。

黒澤明の映画は絶対見るというような偏執愛的なものがあるわけです。

そこは映画が芸術たるところだろうと思います。

ところが昨今の映画はこうした作家主義的、偏執狂的な部分よりも、あえて無難な着地点で抑えようとしているように思えます。

資本主義が行き詰まり、社会は個人を見放しつつある時代にあって、個人はそろそろ気づくべき時です。

かつてはお金に価値がある時代だった、それが資本主義を支えていたのです。

しかし、もうそんな時代ではないことにみんな気づき始めてきているわけです。

だからみんなSNSなどで繋がりたいのだと思います。

だから私たちの時代なのです。

私はずっと言い続けているのですが、いまや日本人総芸術家の時代の到来だ、と。

映画は資本がかかるからと諦めるのはこの際どうでもいいのです。

インターネットがあれば不可能なことはないのです。

誰かのもとでもう働くこともありません。

自分というアイデンティティを表現することで生きていく生き方を選べばいいだけなのです。

みんな芸術家になってみんな幸せになる世界です。

日本人は農耕民族、芸術家になる素養を誰しも持ってるはずなのです。

現代社会は正社員から非正規雇用の流れになってきていて、ビジネスで成功するとか声高に騒がれたりするが、そんなものはほっておきましょう。

大成功しなくてもいいではないでしょうか?

それよりも大切なことは自分が納得できる人生を生きるかどうかだと思います。
世の中の趨勢に騙されないようにしよう。

あなたはあなたの人生を歩んでいきましょう。

映画とは何か

私が映画を志してからはや38年が経過しました。

その間の日本映画の現状は多少良くなっているようにもみえますが、結局のところ本質的には何も変わっていません。

その本質の部分を変えない限り、日本映画はいつまでたっても新しい地平へと向かうことはできないのです

それは映画を作るという部分、つまり映画製作の旧態依然とした体質を変革させることに尽きます。

あなたは、いままさに日本映画業界でなんとか生きていこうと必死に生きていることと思います。

ぜひとも最後までじっくりと読んでください。そして日本映画業界がいかに駄目なところかを考えてほしいのです。

そうしてその向こうに希望でしかない世界を感じてくれたら嬉しいです。

まず始めに考えたいことは、そもそも映画の定義がしっかりとされていないことに問題はあると思います。

映画を見ない時代にあって今更ながら映画とはいったいなんなのかということです。

さらに映画館でみる映画が映画の全てではなくなった時代に改めて映画の価値を考えることはとても重要だと思います。

一時期まで映画観客動員を2億人にすることがミッションであるかのように唱えられたことがありました。

これは大衆娯楽時代の発想です。

問題は数の論理ではありません。

映画は娯楽か芸術かという問題もあるかと思いますが、この発想もとても古いです。

だいたい娯楽と芸術を区別していること事態が前時代的です。

映画は映画だし、映画は娯楽でもあるし、芸術でもある。

さらにいえば人の主観の問題になるものに左右されるものに意味はありません。

映画を商業映画と自主映画と区別することもありました。これも意味不明です。

商業であろうが自主であろうがどちらでもいいのです。

要するに誰かが映画を観て、よかったと思えたらいいわけです。

とてもシンプルです。

そうして映画がいったい人々にどんな夢をもたらしていたかを考えればいいと思うわけです。

例えば映画館で見る人が減ったら映画が退化したわけではありません。

それは時代の趨勢です。

かつては映画が娯楽であると思う人が比較的多かったから映画人口も多かった、ただそれだけのことにしかすぎません。

問題は映画のポジショニングにいきつくのです。

現在の映画はコンテンツ配信業者のために配給するだけの存在だということです。

映画ってそれだけのものかといいたいわけなのです。

私にとって『七人の侍』は人生を変えるものだったわけです。

映画とは現実を超えたある意味共同幻想をいきる代物ということを忘れてはいけません。

年間の観客動員数が1000万人でもいいのです。その1000万人の人々がハッピーになれたら素晴らしいではないですか。

映画とは共同幻想の産物なのです。

かつて映画が娯楽の王様と謳われたのは、映画という銀幕の世界をみんなが憧れていたからだと思うのです。

昭和時代の日本人は西洋列強に追いつけ追い越せとがむしゃらに生きてきました。

美辞麗句の裏では日本の社会は豊かであったわけでもありません。

だからこそ日本人は銀幕に想いをはせたのです。生きる勇気をもらったのです。そこには共同幻想があったはずです。

映画は数の論理、稼ぎの論理でもなくて、あくまで夢という精神的なものとして、私たちの心の中に屹立としていたのです。

そこを押さえないと映画の問題が見えてこないわけです。

つまり、日本映画が駄目になったのは、観客動員が減ったからでも、面白いものがなくなったからでもなくて、ただお客様に夢を見させられる環境を提供できなくなったからというのが正しいといいたいのです。

映画を見せる環境を変えることこそ、日本映画の未来につながるのだといいたいのです。

映画は夢のあるものです。

そのためには他を犠牲にしても仕方がないと思ってはいないでしょうか。

たしかに映画ビジネスでは限られた人しか儲けてはいないのが現状です。

しかし、それでは映画業界に人材が集まるわけはありません。

私はこの現状にNOを突きつけたいのです。

まずクリエイターが豊かな生活を送れるような環境を作りたいのです。

そうしたビジネスモデルを作る。

現状ではまずむりです。

現在の映画ビジネスの収益分配は、興行者→配給者→製作者という流れになっています。

映画を作っている製作者が最後に収益の残りを受け取るしくみになっています。

この残りの収益から映画製作費を除いたものが製作者の収入になるということ。

これでは絶対に儲かるわけがないです。

私たちはすべての映画ビジネスをコントロールします。

そうすれば、制作した者にまず収益を配分すると決めることができるからです。

むりだからと言って行動を起こさなければゼロである。

しかし大いなる目標でも少しずつできることから始める。

ゼロから始める。映画ビジネスはリスクがある。しかし夢があり。冒険でもあります。

リスクを恐れる人、夢を見ない人、冒険をしたくない人は映画ビジネスに手を染めない方が賢明です。

他のビジネスを選択した方が映画よりも簡単にお金を稼げるのだから。

しかし1%の可能性に賭けて頑張った者だけが夢を実現させることができる。

あなたはどちらですか。

もし、現在の日本映画界に魅力を感じているというのであれば、本書を読むのをやめていただいて結構なのです。

あなたが決めるべきことです。

それでもなお、私の提案する物語を知りたいという方だけに読んでいただきたいのです。

映画に関わらず、芸術というものはすべて「反権力」なものなのです。

どういうことかといえば、「権力」というものは自らの地位にとどまりたいという力学が働きます。

つまり人は権力を持ってしまうと、それを守ろうとします。

それ以上向上することを止めてしまいます。

それとは逆に、芸術というものは絶えず変革を望む性質を持っています。

向上しなければ、すなわち「死」を意味します。

芸術は常に「反権力」なのです。

この人の感性はすでに「権力」にとらわれているわけですよね。

芸術表現するための感性ではない。

一時期、猫も杓子も「オマージュ」花盛りでした。映画ファンであるかぎりにおいてそれもいいでしょう。

しかしかりにも映画を撮る姿勢としてはいただけない。

もちろんどのような芸術家であっても過去の作品の呪縛からは逃れられないわけです。

しかしそこからいかにして新しいものを生み出すかということが芸術家の主題だと思います。

過去の作品にオマージュを捧げて喜ぶ神経はどういうものだろうと思います。

そんなに好きだったら映画ばかり見ていたらいいのにと思います。

極端な話ですけれど。

映画を撮るという行為は自分の心の中に潜む表現したいという欲求が原動力になるものだと思います。

表現対象は、たぶん映画でなくてもいいのかもしれない。

映画が好きだからとかいう次元ではありません。

芸術表現したいというエネルギーが爆発して芸術作品を創造するのだと思います。

だから映画にしても軽い気持ちでは作れないはずです。

もっと自分はなぜ映画を撮らなければならないのかを突き詰めて考えてほしいのです。

オマージュであると言っている間は権力の範疇にいます。

しかし、そこから自分という殻を突き破り、新しいものを創造していく行為、これこそが「反権力」であり、芸術の真実な姿であります。

映画を好きだから仕事にしたいという気持ちはもちろんわかります。

しかし映画にかかわらず芸術というものはいったん外に出てしまうと社会的な存在になってしまいます。

社会的な価値を持ってしまうのです。

おろそかにはできないのです。

現在、日本映画業界は玉石混淆な状態にあるといえると思います。

芸術表現であるものと、そうではないものというものが混ざり合っている状態です。

現代の映画は「ビジネス」という尺度から計られています。

芸術的な価値があるのかどうかではなくて、ビジネス的な価値があるのかどうかということ。

しかし勘違いしてほしくはないことがあります。

「芸術」は面白くはないもの。ビジネスではない。

「娯楽」は面白いもの。ビジネスである。

どうですか。この定義は間違っています。

芸術はとことん面白いものです。

なぜならば既成の概念を打ち破るものが芸術です。常にハッとさせられる。

逆に娯楽というものは社会のトレンドと同じ歩調で歩く。既存の枠組みの面白さが要求される。

そこには予定調和な面白さしかないわけです。

これらはどちらがいいとかいうものではないと思います。

同じ土俵で考えるべきものではないのですよね。

まず映画は芸術である。

そして芸術であるからこそ、徹底的に面白く、だからこそ真のエンタテイメントである。

芸術は暗い、面白くはない、商業的ではない、と考えるのは止めにしましょう。

映画を駄目にしたのはこうした偏見です。

まずはこうした偏見を打ち破ることをしましょう。

これこそが「反権力」な、もっといえば「芸術」的な行動なのです。

さらにいえば、真のビジネスたるものを突き詰めていくと、芸術作品に似てくる。

おそらくは他業種のトップリーダーたちはこう感じているでしょう。

「ビジネス」と「芸術」の二つに共通すること、それは常に常識に立ち向かうという性質です。

芸術をネガティブなポジションに閉じ込めるのは止めましょう。

さて、日本映画業界は「芸術」をエンタテイメントではないと決めつけてはいませんか?

かつて世界を驚かせた日本映画はすでに産業基盤は崩壊し、個人の才能だけが残っているだけの焼け野原の状態である。

映画はエンタメ産業の一つとして活路を見いださざるを得ない状況となった。

映画で仕事をしたい場合、エンタメ産業のなかで生きるか、または個人で自主映画を撮るかの選択肢しかない。

しかし、私はあえて提案する。

日本映画産業(言い換えるなら大手映画会社)は撮影所システムが崩壊してからというもの、商業映画か自主映画というカテゴリで日本映画産業を規定してきた。

もはや日本映画産業はエンタメ産業に屈したも同然。日本映画のオリジナル性は喪失したといっても過言ではない。

これからの選択肢は映画オリジナルか、エンタメ産業かの二者択一だ。

放送産業を頂点としたエンタメ産業は映画産業を含めた護送船団方式である。資本関係を見れば明らかだ。

では私の提案する映画オリジナルとは何か、といえば、全てが映画で完結するというものである。

いまさらそんな夢物語がと誰しもが思っているので、誰も考えたこともないはずだ。

文明の利器インターネットが登場することによって、いったんは崩壊した日本映画を再生させるチャンスが到来した。

ではこうしたチャンスではあるのになぜ日本映画産業は食いつかないのか、これは当たり前で、自己崩壊させざるをえないからである。

現在のシステム構造を再構築する勇気がない。すれば今の利権にしがみついている者は足下からその地盤が崩れ落ちるからである。

だからインターネットを本気で活用することもせず、ただデジタルコンテンツと嘯いているわけだ。。

インターネットは日本映画を本質的に再生させるツールなのだ。

しかもかつては映画5社の独占だった産業を、個人単位で再編成させることができるという夢のような話なのである。

いよいよ日本映画の時代が到来しているのだ。

映画が水ものと言われる所以は、大衆映画時代で大量生産していた頃の名残である。

人間には千差万別の趣味趣向があるわけで、どうしても見たいものは見たくなるのが人情というものである。

黒澤明の映画は絶対見るというような偏執愛的なものがあるわけだ。

そこは映画が芸術たるところだろうと思う。

ところが昨今の映画はこうした作家主義的、偏執狂的な部分よりも、あえて無難な着地点で抑えようとしているように思える。

資本主義が行き詰まり、社会は個人を見放しつつある時代にあって、個人はそろそろ気づくべき時だ。

かつてはお金に価値がある時代だった、それが資本主義を支えていたのだ。

しかし、もうそんな時代ではないことにみんな気づき始めてきているわけである。

だからみんなSNSなどで繋がりたいのだと思う。

だから私たちの時代なのである。

私はずっと言い続けているのだが、いまや日本人総芸術家の時代の到来だ、と。

映画は資本がかかるからと諦めるのはこの際どうでもいい。

インターネットがあれば不可能なことはないのである。

誰かのもとでもう働くこともない。

自分というアイデンティティを表現することで生きていく生き方を選べばいいだけだ。

みんな芸術家になってみんな幸せになる世界である。

日本人は農耕民族、芸術家になる素養を誰しも持ってるはずなのである。

現代社会は正社員から非正規雇用の流れになってきていて、ビジネスで成功するとか声高に騒がれたりするが、そんなものはほっておこう。

大成功しなくてもいいではないか?

それよりも大切なことは自分が納得できる人生を生きるかどえかだと思う。

世の中の趨勢に騙されないようにしよう。

あなたはあなたの人生を歩んでいこう。

no.1 日本映画産業をアップグレードするとは

日本のコンテンツ産業は世界でも注目されている。

これは今に始まったことではない。

遠くは江戸期の葛飾北斎などの浮世絵などを含めると相当広範な芸術が認められてきた。

日本映画もそうだ。

黒澤明だけではなく、豪華絢爛たる作品群を日本映画は生み出してきた。

クォリティからいけば、ハリウッドにも劣らない作品が大量に作られたのである。

その源泉はやはり撮影所システムにあったと思う。

かつての映画会社は撮影所システムという、極めて効率的かつハイレベルな仕組みで映画を量産していたのだ。

昨今も相当数の作品が作られてはいるが、当時500本の映画が封切られていたのは驚きである。

だからこそ娯楽の王様の地位をいただいていたわけなのだが。

しかしこの撮影所システムも1971年にメジャー2社が倒産して、機能不全となってしまった。

1970年代は日本映画が斜陽と言われた時代だった。

1970年代後半に角川春樹氏によるメディアミックス戦略によって、日本映画はいったん復活する。

が、メディアミックス戦略から派生した、製作委員会方式が普及して以降行き詰まりを見せた。

当然だ。

メディアミックスも製作委員会方式もあくまでドラッグみたいなものだったのだから。

その時は気持ちがいいが、本質的には日本映画の体力を奪っていった。

いつの間にか、日本映画業界というよりかはエンターテインメント業界という大枠に閉じ込められてしまった感があるわけだ。

日本映画業界は撮影所システムを喪失することを引き換えに魂を売ったと言えなくもない。

映画は映画館で見るものだと野暮なことは言うつもりはない。

そうではなくて、映画は映画オンリーを訴えたいと思うのだ。

映画は他のメディアにはない独自性がある。

映画の独自性である。

これはもちろん映画だけの話ではない。文学にしてもそう、音楽にしてもそう、演劇にしても、独自性があって画一的に論じられるべきものではないはずだ。

かつて映画は銀幕と謳われ、そこには世界観があった。

映画の独自性とはその独特な世界観にある。

世界観を追体験することこそ映画体験だったのである。

撮影所システムは世界観を映し出す撮影カメラの役割を果たしてきたといってもいいかもしれない。

現代で映画の独自性を唱えるのであれば、すなわちこの撮影所システムにとって変わるものでないといけないということになる。

それが私たちの提案する、ダイレクト・デジタル・システム【以下DDS】である。

メディアミックスや製作委員会方式は、他業種を取り込むことで、生き残りをかけようとする、映画企業のある意味姑息な手段であった。

DDSは映画本来の世界観を表現する新時代の映画体験である。

no. 2 シネコンバブルの時代は終わった

日本映画業界の状況はシネマ・コンプレックスの拡大による興行収益の右肩下がりに歯止めがかかり、好転したかのように思うむきもあるかもしれない。

しかしそれは見せかけにしかすぎない。

構造そのものを抜本的に変えない限り、日本映画はどうしようもない所まできてしまっているのだ。

日本映画は1990年代中頃に一度破綻しかけたことがあった。さまざまな問題点が露呈していたからだ。

たまたま日本映画は、シネマ・コンプレックスとデジタルコンテンツとによって再生した。

しかしこの二つはドラッグにも似て、手を出すのには危険な賭けでもあった。

なぜか?

何事も起こらなくても盛況の陰にかくれた形で日本映画は確実に弱体化が進行していくだけだったからである。

なぜ断言できるのか。

なぜならば、クリエイターの大事な才能を現在の業界の構造はいかすことができていないからである。

利益は搾取されて、才能すら枯渇させられるのが現状だ。

特別挑戦的な言い方をしているつもりはない。

業界の人はおそらくこれらのことを否定することはできないはずである。

誰も好き好んでドラッグをやめる人はいない。気持ちいいことを止める気にはならないはずである。特に特権階級の人にとっては。

日本映画の状態は踊らされているのだといえばいい。

バブル。

日本映画はその体力以上の期待感にあふれている。

いずれバブルははじける。

だからドラッグを自らやめる覚悟が必要なのである。

日本映画を担うということに対して覚悟ある生き方ができるかどうか。

今後はそうした生き方にプライドをもつことの重要性が増してくるであろう。

no. 3 映画に携わる者は豊かでなければならない

昨今の日本映画は莫大な製作費の回収をいかに克服するかが、ビジネスとしての最重要課題となっている。

たしかに映画がビジネスであるかぎり、収益を上げることは重要なことではある。

しかし現在の状況では、クリエイターがその才能をいかす環境をつくることができてはいない。

私はそうした現状に否を唱える。

まずクリエイターが才能を最大限に発揮できる環境を作ることが先決だ。

映画ビジネスでは本来、面白い映画を作ることが最優先事項のはずである。

しかし、リスクを回避するあまり、結局は、無難でつまらない作品になってしまっているのが現状ではないだろうか。

私たちの活動は、従来は特権的な人間の手中にあった映画ビジネスを、クリエイター自身の手に取り戻す、いわば映画芸術復権運動であるということがいえる。

映画は芸術であると同時に、エンタテイメントでもある。

芸術としての価値を追求することこそが、エンタテイメントへの早道になるのだと思う。

クリエイターの創造環境を作ることが、ビジネスとしても成功することにつながるのだと信じてやまない。

というのも、現在の日本映画のほとんどがビジネスとして健全なかたちをなしていない。

それは全ての映画の市場参加者が、大資本の全国公開を前提としたビジネスモデルを行動および思考の根幹においているためである。

現在の映画市場は、不特定多数にむけた市場であるために大量の観客を動員できるのも事実だが、非常に無駄なコストのかかるビジネスモデルであるといえよう。

つまりリスクの大きなビジネスモデルであることには変わりません。

大手のような展開ができればまだ成立するかもしれないが、同じような方法で小規模作品をやるとどうしても具合が悪い。

そのために一部の大手の作品以外は製作費を回収することが難しいのが現状である。

また映画ビジネスは分業制になっているために大局的な人材育成を行いづらい環境になっている。

さらに言えば、人材を消費しているだけであるともいえよう。

これでは日本映画の未来は暗いものと言わざるを得ない。

no. 4 日本映画業界は構造不況である

私たちのミッションは、制作スタッフと俳優が大きな報酬を得る映画ビジネスの構造を作ることである。

映画というビジネスは、少数の独占企業とそこに集まる下請け企業で成り立っている。

これら独占企業は日本映画の偉大な歴史を背景とした権力者として君臨しているわけである。

映画ビジネスはものづくりである限り、制作というものがキモになるはずだ。

制作することは映画という作品に表現者の魂を込める作業でもある。

しかし、映画ビジネスの中にあってはどうしてもコストがかかる。

いや、キモであるからこそコストがかかるわけである。

大手の映画会社は映画産業が斜陽となった時、まずこの制作を分離または縮小することで経営を立て直すことにした。

そこで制作部門は独立プロダクションが単なる下請けとして担当するようになった。

よって映画ビジネスの収益のほとんどは配給・興行会社が取る構造になったわけである。

かつての撮影所は人材育成を担っていたわけだが、撮影所機能が衰えたこの30年間で、制作者には収益がほとんど還元されず、人材が育つ土壌ではなかった。

それにしても、制作という映画ビジネスの根幹を外部に託すというやり方は映画を本業とする会社の経営姿勢としてどうだろうか。

日本映画業界はあきらかに構造不況なのである。そうして悪いことに映画スピリットを喪失してしまっているのが現状といえる。

映画ビジネスのキモである制作をおろそかにしてきたつけはとても大きい。

観客動員数の増減に一喜一憂している場合ではない。

日本映画はビジネス構造を革新すれば必ず蘇る。

私は日本映画を変えてやると志を持ち、この37年間日本映画業界を見続けてきた。

そしてインターネットの時代の到来で、日本映画を革新するべき時がいよいよ訪れたと考えている。

no. 5 新しい常識を生みだす

映画は夢を売る商売だ。リスクはもちろんある。しかし私はビジネスをしないとは言ってはいない。

映画というものはビジネスとして成立させなければいけない反面、芸術的側面の強いものでもある。

日本映画はもっとうまく舵取りできるならば、もっといい環境になるはずだという確信を私は持っている。

現在の業界はあまりにも作り手の環境が悪すぎる。

まずはそれを作り手中心のしくみに変えたいと思う。そして作り手が作りたいものを作る。

しかし、個人が映画を作るとなれば、映画オタク、またはシネフィルといったような、ビジネス的にはネガティブなイメージで考えられてしまう。

常識では~ 作家主義=自己中心的→内省的または個人的

私たちは~ 個人=普遍的→エンタテイメント

このインターネットの時代は個人の時代ともいえる。

ようやく個人の力で商業映画を作れる時代が到来した。

これは一大事ではないだろうか?

既存の常識では語れない時代なのである。新しい常識を生み出さなければならない。

だからこそ常識で固められた既存の組織からは新しい日本映画を生み出すことはできないのだと判断したわけである。

私がゼロから出発したいと決めたのにはそういう理由があるわけだ。

ゼロからできるの?という問いを受けるかもしれない。

もちろん最初から大きなことを望むことはできない。でも一つずつステップアップしていけば必ずや目標には到達できると思う。

私一人では何もできない。

あなたの力がぜひ必要なのである。

たとえば、目の前に自分が本気で欲しいものがあるとします。もしそれが、1%の可能性しかない場合、諦めるだろうか?

それともその1%でも可能性があるのならば、その1%に賭けてみるだろうか?

あなたはどちらだろう?

私たちが目指す道程は、最初から美味しい果実を求める方には厳しいかもしれない。

ただし、映画という夢に向かって情熱を賭けたいという方には厳しさの向こうには必ずや意義ある人生が待っていることだろう。

ただし私たちがあなたの人生を保障するものではもちろんない。

あなたの自己責任のもと、あなたの力で目標を勝ち取ってほしい。

そのために私は全力を尽くしたいと思う。

ゼロから新しい日本映画の地平を目指す。

no. 6 日本映画産業をアップグレードするの核心

現在の日本映画の動向はひょっとしたらとても活気があるように思えるかもしれない。

デジタル時代のキラーコンテンツとして映画の重要性が高まっていることもあるし、またシネマ・コンプレックスの普及で観客動員数が下支えしているということもある。

未来は明るいように感じられるかもしれない。

しかし本当にそうだろうか。

私が日本映画産業をアップグレードするというプロジェクトの原型を考え始めた、今から37年ほど前からずっと映画業界をみてきましたが、日本映画の状況というものは非常にもろいものだと考えている。

たしかに、社会的には日本映画にたいする期待は高く、希望があるようには思えはする。

しかし、それに応えるだけの体力が日本映画には備わってはいないように思えるのだ。

やれハリウッドがどうだ、次はデジタルシネマだとかと声高に叫ばれてはいるけれども、体力がないことに気づいていないようにしか思えない。

体力というのは、日本映画を発信する製作者のエネルギーとでもいえばいいだろうか。

具体的にいうと、映画作家の思想やデザイン力というものである。

この場合の映画作家とは監督だけではない。スタッフの全てをさす。

日本映画のそうした体力に力強さをどうしても感じることができない。

あなたはどうだろうか?

この体力のなさは作家だけの問題ではないと思う。

単刀直入に言ってしまえば観客動員数なんてどうでもいい。

要するに日本映画が面白いのかどうかという一点にかかっているのだと思う。

日本映画の活力の判断材料としては、観客動員数あるいは興行収入という側面で語られる場合が多い。

あなたもよく目にする数字だと思う。

近年は、数字的に言えば悪くはないといえるのだと思う。

興行収入(外国映画を含む)に関していえば、一昨年度において過去最高の収益を記録しています。

また、日本映画のシェアも上がってきている。

私はかつてある映画館に勤めていた。20年ほど前のことだ。

都心からは離れた場所にあり、そこそこの客数を誇っていた。

私がこの劇場に所属になったのは1994年のことです。

その翌々年に観客動員数は過去最低の1億1900万人を記録と暗い話ばかりだったものだ。

いまでこそシネコンが充実したが、その頃はまだ古い形の映画館が幅を利かせている時代だった。

サービスなんてものはないに等しく、ただ観客に映画を見てもらうだけという姿勢だった。

そりゃあ、観客動員も右肩下がりにもなってもおかしくはない体たらくだった。

ですから、かつての映画館とシネコンは雲泥の差なのである。

当たり前である。サービスという概念が生まれたのは最近の話だから。

これほどサービスが向上したのにも関わらず、観客動員数は倍増しないのである。

何だかおかしいとは思わないだろうか?

設備やサービス以外に何か問題があるとしか思えない。

日本映画はたしかに海外などで評価されている場合もあるし、ハリウッドでリメイクされるということもあり、品質が向上しているように思える。

しかし、かつて日本映画はバラエティに富み、そして娯楽性豊かな、人間ドラマが量産されていた。

今見ても普遍性のある面白い作品が無数にある。

はたして、現在の日本映画は普遍性のあるものだろうか?

今後も幾度もリバイバル等で観客を沸かしてくれるだろうか?

はなはだ疑問だ。

なぜなら現在の日本映画には欠けているものがある、おそらく。

たとえばそれは作家の人間性、情熱、または創造意欲。

それらのいずれかが欠落しているとしか思えない。

けれども才能の欠陥というよりも、現在の映画の製作構造に欠陥があるように思えるのだ。

そのために人材の意欲をそいでいるように思う。

日本映画は構造不況なのだと思うゆえんだ。

はたして日本映画業界には明確なビジョンがあるだろうか?

たとえば、あふれかえるほどシネコンっていうのは作る必要性はあるのだろうか?

日本人って、ほんとに映画を見る習慣があるのだろうか?

動員数2億人と目標をもつことはいいとしても、ひょっとしたら現在の動員数が適正動員数なのでは?

だって映画を見るのは若い人が多いわけだ。

今後高齢化社会を迎えるのだから減っても当然ではないだろうか?

このことだけではなく、日本映画はさまざまな問題をかかえているように思える。

しくみが才能を奪っているとしたら、そのしくみ自体を変えなければいけないわけである。

私たちがまず何をやりたいのかと言えば、迷わず人材を発掘して育成することである。

そのための環境づくりをしたいということである。

面白いものを作るのはヒトである、人材。ビジネスの話はその後だ。

固定費がかかるから人材を雇えないよ、と人員削減をするのであれば、映画事業をやる意味がない。

人材を大事に育て上げることが映画事業にあっては最重要事である。

まずはこの人材をいかすことを考える。

そして次は人材を有効に活用し、ビジネスになる仕組みを抜本的に考えよう。

それが映画ビジネスにあっては王道なのだと思う。

現在の細分化された業界ではブランドというものを生み出すことのできない土壌となっている。

しかしブランドこそは映画ビジネスにあってはとても大切なのだ。

全てを抱えることなんて絵空事、非現実だよ。

そのように非難されることは承知の上だ。そしてそれは業界の常識でもある。

それでは新しい常識を打ち立てよう。

私たちは独自の人材を発掘し、育成する。それこそがブランドであり、ビジネスの根幹でもある。

これは私たちの最大の使命である。

そしてクリエーターが満足のいく仕事ができれば面白い映画を作ることができると信じている。

そのための環境づくりが私たちのビジネスだ。

現在のシステムに組み込まれてしまうとなかなか思うようなビジネスができないだろうと思う。

しかし私は排他的なことをするつもりはない。

重要なことは人材を大事に育てるということがメインテーマであるということなのである。

no. 7 科学技術の盲信は映画を堕落させる

映画はその誕生以来科学技術の進歩とは無縁ではありえなかった。

というよりもその進歩の影響下にあった。

モノクロからカラー、サイレントからトーキー、スタンダードからワイド、そしてフィルムからデジタル。

映画芸術が選択したのではない。

科学技術によって映画芸術のフォルムは常に決定されてきた経緯がある。

映画芸術の歴史はフォルムの変遷といってもいい。

たとえばスタジオ撮影からロケーション撮影への変化。単独館公開からシネマ・コンプレックス公開への変化。

これらも広義の意味でのフォルムの変遷といえると思う。

最近ではデジタル撮影におけるCG映画というもの、そして映像配信技術も含む。

どんどん映画の外的環境は変化を遂げていっている。

これらは映画製作費の高騰に悩む映画会社の収益力をつけたいという思惑と合致し、ますます加速していっている。

しかし映画は芸術である。当然、科学技術がすべてではない。その内容こそが重要であるのは当然だ。

過去100年の日本映画をみてみた場合に芸術表現は進歩したのだろうか?

科学技術のように芸術表現も新しい展開があるだろうか?

映画に限らず、芸術というものは作家の魂の表現形態である。

まず表現ありきだ。しかし現代の映画はまずビジネスのことばかりを追求してはいないだろうか?

たしかにビジネスは重要だ。

ビジネスのことを考えずともお客が入った時代は終わった。

だからビジネスになるための方策を立てねばならないことはわかる。

しかし今が良ければすべてよしのやり方で対応していたのでは長期的に見れば問題を先送りしているだけである。

これではドラッグを打ち続けているようなものだ。

このままでは日本映画の体力はもたない。いずれ消耗してしまいかねない。

体力を回復させるための処方箋を考えなければいけない。

重要なことは科学技術にひっぱられてきた映画の羅針盤を芸術表現へと切り替えることを早急にすべきである。

そのための芽を植えて育てていかなければいけない。

日本映画は決してデジタルテレビの低価格消耗戦のような事態にまきこまれてはいけない。

早く世の趨勢であるデジタルコンテンツの誘惑を断ち切る勇気が必要なのである。

デジタルコンテンツとしての映画は将来的にキラーコンテンツとして有望であるからこそさまざまな取り組みがなされている。

たしかに世の中の動向をトレンドとして受け入れることは大切ではある。

しかし間違ってはならないのはなぜ映画業界以外の異業種企業が映画に触手を伸ばすのかということを考えておいた方がいい。

彼らは映画という資産を利用したいだけなのだ。

映画を映画館でみる行為は、みるという行為以上の感動を体験する付加価値商品であると言える。

私たちは映画館でみた映画作品そのものよりも、その時誰と行ったのかとか、劇場の雰囲気とかの方が鮮明に記憶に残っていたりする。

またその印象が映画作品の記憶を増幅していくものではないか。

そういった体験こそが映画館で映画をみるという素晴らしさなのだと思う。

しかしデジタルコンテンツとしての映画は個人所有のモニターで見るということを前提としている。

DVDにしてもインターネット配信にしてもそうだ。

個人でも簡単に見ることができる汎用商品に仕立て上げようとしているのだとしか思えない。

「風と共に去りぬ」が1500円で所有できるなんて異常としか思えない。映画の価値って一体何?と思ってしまう。

なのに映画業界はその趨勢に積極的に加担しようとしているのだ。

私が映画業界のビジョンがみえないと思うのはそういうところである。

デジタルコンテンツというトレンドに乗っかっているだけのようにしか見えない。

もっと大局的立場にたって、日本映画はこうするのだという道筋を考えださなければいけない。

でなければ日本映画はいずれ衰退する。

日本映画に必要なのはアナログの思考なのである。

人間の目でモノを見る感性と言い換えてもいいかもしれない。その思考が非常ににぶくなってきている。

これはたぶん商業主義の悪い部分が現れてきているのだと思う。非常に悪い形で。

そして本当に悪いことには、現代の映画作家の個人的で表現方法に新しさを求めない思考が、個人のモニターで視聴されるデジタルコンテンツの特性にうまい具合にリンクしているということ。

みんなの欲望が同じ方向を向いている。だから誰も疑問には思わない。

だとすればどうしようもないことなのだろうか?

しかし映画は時代のトレンドを先取りする力を持っているはずなのである。

たとえばこの時代豊かになりすぎたから描くものがないというのは言い訳にしか過ぎない。

もしそうした考え方をもっている人がいるのならば、映画業界から退出してほしいと思う。

映画は時代を切り拓く芸術だと思う。いやそうあってほしい。

映画作家もそれくらいの意識でいてほしい。自分だけの殻に閉じこもるのではなく。

極論、個人的なものを描きたいのならばビデオで撮って無料で公開したらいいと思う。

もっと社会と闘ってほしい、その対価として入場料金を頂くのだというくらいの気構えであってほしいと思う。

そうした映画作家の情熱が観客のこころを惹きつけるのではないだろうか。そうしてビジネスとしても成功するはずだということ。

こうした映画作家たちの情熱が明日の日本映画を作っていく。

映画は科学技術の呪縛から逃れて、芸術表現を取り戻さなければいけない。

no. 8 日本映画の新しい地平を切り拓く

映画の仕事はしたいけれど、しんどそうだし、厳しそうだ。給料も少ないだろうし。

こう考えている人は多いのではないだろうか。

映画は夢のあるものだ。

そのためには他を犠牲にしても仕方がないと思ってはないだろうか。

たしかに映画ビジネスでは限られた人しか儲けてはいないのが現状である。

しかし、それでは映画業界に人材が集まるわけはない。

私はこの現状にNOを突きつける。

まずクリエイターが豊かな生活を送れるような環境を作りたいと思う。

このテーマをもとにしたビジネスモデルを作る。

現状ではまずむりである。

現在の映画ビジネスの収益分配は、興行者→配給者→製作者という流れである。

映画を作っている製作者が最後に収益の残りを受け取るしくみになっている。

この残りの収益から映画製作費を除いたものが製作者の収入になる。

これでは絶対に儲かるわけがない。

私たちは制作から宣伝、そして興行までの一貫した映画ビジネスを指向する。

そうすれば、制作した者にまず収益を配分すると決めることができる。

私たちのめざすビジネスは大きな規模になると思う。

しかし、それは個人がという意味でですが。

不可能なのではと思われる方もおられるのではないだろうか。

私たちは業界の常識に挑戦する。不可能なことでも挑む。

それが日本映画の新しい地平を切り拓くと考えるからだ。

むりだからと言って行動を起こさなければゼロである。

しかし大いなる目標でも少しずつできることから始める。

ゼロから始める。確実に一歩ずつ歩んでいく。

映画ビジネスはリスクがある。しかし夢があら。冒険でもある。

リスクを恐れる人、夢を見ない人、冒険をしたくない人は映画ビジネスに手を染めない方が賢明である。

他のビジネスを選択した方が映画よりも簡単にお金を稼げるのだから。

しかし1%の可能性に賭けて頑張った者だけが夢を実現させることができる。

あなたはどちらですか。

no. 9 反権力について

あなたは、「反権力」と聞いて何をイメージしますか。

映画に関わらず、芸術というものはすべて「反権力」なものなのですよね。

どういうことかといえば、「権力」というものは自らの地位にとどまりたいという力学が働きます。

つまり人は権力を持ってしまうと、それを守ろうとします。

それ以上向上することを止めてしまいます。

それとは逆に、芸術というものは絶えず変革を望む性質を持っています。

向上しなければ、すなわち「死」を意味します。

芸術は常に「反権力」なのです。

たとえば映画作家の中には、過去の作家にたいするオマージュだといって自己陶酔気味に喜んでいる場合があります。

この人の感性はすでに「権力」にとらわれているわけですよね。

芸術表現するための感性ではない。

一時期、猫も杓子も「オマージュ」花盛りでした。映画ファンであるかぎりにおいてそれもいいでしょう。

しかしかりにも映画を撮る姿勢としてはいただけない。

もちろんどのような芸術家であっても過去の作品の呪縛からは逃れられないわけです。

しかしそこからいかにして新しいものを生み出すかということが芸術家の主題だと思います。

過去の作品にオマージュを捧げて喜ぶ神経はどういうものだろうと思います。

そんなに好きだったら映画ばかり見ていたらいいのにと思います。

極端な話ですけれど。

映画を撮るという行為は自分の心の中に潜む表現したいという欲求が原動力になるものだと思います。

表現対象は、たぶん映画でなくてもいいのかもしれない。

映画が好きだからとかいう次元ではありません。

芸術表現したいというエネルギーが爆発して芸術作品を創造するのだと思います。

だから映画にしても軽い気持ちでは作れないはずです。

もっと自分はなぜ映画を撮らなければならないのかを突き詰めて考えてほしいのです。

オマージュであると言っている間は権力の範疇にいます。

しかし、そこから自分という殻を突き破り、新しいものを創造していく行為、これこそが「反権力」であり、芸術の真実な姿であります。

映画を好きだから仕事にしたいという気持ちはもちろんわかります。

しかし映画にかかわらず芸術というものはいったん外に出てしまうと社会的な存在になってしまいます。

社会的な価値を持ってしまうのです。

おろそかにはできないのです。

現在、日本映画業界は玉石混淆な状態にあるといえると思います。

芸術表現であるものと、そうではないものというものが混ざり合っている状態です。

現代の映画は「ビジネス」という尺度から計られています。

芸術的な価値があるのかどうかではなくて、ビジネス的な価値があるのかどうかということ。

しかし勘違いしてほしくはないことがあります。

「芸術」は面白くはないもの。ビジネスではない。

「娯楽」は面白いもの。ビジネスである。

どうですか。この定義は間違っています。

芸術はとことん面白いものです。

なぜならば既成の概念を打ち破るものが芸術です。常にハッとさせられる。

逆に娯楽というものは社会のトレンドと同じ歩調で歩く。既存の枠組みの面白さが要求される。

そこには予定調和な面白さしかないわけです。

これらはどちらがいいとかいうものではないと思います。

同じ土俵で考えるべきものではないのですよね。

まず映画は芸術である。

そして芸術であるからこそ、徹底的に面白く、だからこそ真のエンタテイメントである。

芸術は暗い、面白くはない、商業的ではない、と考えるのは止めにしましょう。

映画を駄目にしたのはこうした偏見です。

まずはこうした偏見を打ち破ることをしましょう。

これこそが「反権力」な、もっといえば「芸術」的な行動なのです。

さらにいえば、真のビジネスたるものを突き詰めていくと、芸術作品に似てくる。

おそらくは他業種のトップリーダーたちはこう感じているでしょう。

「ビジネス」と「芸術」の二つに共通すること、それは常に常識に立ち向かうという性質です。

芸術をネガティブなポジションに閉じ込めるのは止めましょう。

さて、日本映画業界は「芸術」をエンタテイメントではないと決めつけてはいませんか?

no. 10 映画の「品質」について

映画の品質には二つの要素があると考えます。

一つは「物語力」。もう一つは「空間力」。

前者は、ストーリーや人物を物語る力、後者は物語を映像に置き換える造型力とでもいえるものです。

現在の日本映画にはこれらの要素が希薄になってきているように思います。

内省的で何がいいたいのかわからないようなもの、ただ単にストーリーを追っただけのもの。

なぜこのような状況になってしまったのでしょうか。

作家自身の問題意識が希薄になってきたことは否めないでしょう。

そのため物語に力強さのない作品になってしまう。

よく「スタイリッシュ」という言葉が使われますよね。

感覚的で刺激的な映像美。とてもかっこいいようなイメージを持つ言葉ですが、これは映画にとっては特別重要なものではありません。

そうしたものは観客の記憶にすら残りはしないものでしょう。

映画の感動というものは、刹那的な美しさに置き換えられるものではありません。

感動は映画の品質の高さに比例していくものだと思います。

映画の品質とは、「物語力」×「空間力」という式で表わすことができると考えます。

力強く物語る力とそれを造型する力が掛け合わされた時にその作品は観客の記憶に深く刻まれるのだと思います。

日本映画業界の構造的な問題よりも、この映画の品質が低下していることの方が重大な問題です。

まずはこの映画の品質を高めていかなければいけません。

でなければ今後ますますこの品質は右肩下がりで低下していくことが確実だからです。

というのは、時代は「デジタル」をキーワードにあらゆる業種が連携を組むようになってきています。

映画業界も例外ではありません。

映画という商品も「デジタルコンテンツ」の一つとして見られています。

なぜこういうまとめられ方をされるのかといえば、一つのデジタル商品を2次利用、3次利用、つまり映画をDVDに、そしてゲームへとシフトさせていき、収益を極大化させていくことを想定しているからです。

しかし、こうした傾向は映画の性質を変質させてしまいかねません。

モニターを通して鑑賞する映像としての価値。

テレビドラマも映画作品も同じ価値。

その先には映画やテレビドラマという概念すら曖昧になる世界が待っているのではないでしょうか。

しかし、映画とテレビは本質的に違うものであるわけですよね。

映画は芸術である。

テレビは伝達手段である。

テレビドラマであってもストーリーを伝達するという役割には変わりません。

テレビ業界で脚本家にスポットがあたるのもテレビという特性からすれば当然です。

同じ映像を扱うものではありますが、やはりその役割というものは厳然として存在していると思います。

一つのデジタルコンテンツだという考え方はどうしても本質を見過ごしているように感じられます。

科学技術の革新によって映画の技術は格段に進歩してきました。

しかしそろそろ映画は自らのスタイルを取り戻さなければなりません。

自らの力で歩むことをしなければいけません。

でなければ映画の精神(力)を喪失することになるでしょう。

業界の構造や世の趨勢を変えることはとても困難なことです。

しかし 作家が映画の品質に自覚的となり、映画独自の世界を築き上げることはそれほど難しいことではありません。

それぞれの個人が映画の品質を高める努力をしていけば、日本映画の裾野は広がり、大いなる希望も見えてくるはずです。

そうした個人が増えていけば、きっと業界の構造や世の中のトレンドさえも変えていく原動力になるはずなのです。

まずはその一歩を踏み出していきましょう。

映画作品は、たとえば映画評論家がその価値を論じたりしていますが、結局は映画会社の提灯記事を書いていたりして信用に値しないものが多いです。

映画評論家を批評することも重要なことかもしれませんね。

映画という芸術はビジネスという渦に巻き込まれて、本質が見えなくなってきているような気がします。

そのためにも映画の品質を考えることは大切なことだと思います。

私たちはこうした映画の本質に立ち返り、事業を始めていきたいと考えているわけです。

no. 12 小規模で効率のよい方法

戦後日本は、世界史の奇跡とも言われた高度経済成長を遂げました。

海外の企業は日本的経営をこぞって真似したほどでした。

しかしご存知の通りバブル経済の崩壊で日本経済は地に堕ちました。

大量消費時代は終わりを告げ、新しいビジネスモデルを模索するようになったのです。

多品種少量生産時代の到来です。

日本映画業界はどうでしょうか?

ここ十年で全国的に普及したシネマ・コンプレックスという映画館の形態をみてみましょう。

一見さまざまな映画を上映できる環境であるかのように考えられていますが、実は、大量消費時代を想定したビジネスモデルによって成立しているのです。

大量に宣伝した作品しか稼ぐことはできない。

興行力のない作品は見捨てられていくシステムであるわけです。

しかし、これはシネコンを経営している企業が悪いというのではありません。

おそらくは映画業界のトップの方の経営判断によって改革できるところもあるのではないでしょうか。

つまり時代に逆行しているのです。

しかも今後日本は人口減少時代に突入していくのです。

いつまでもシネコンという形態が存続できる保証はどこにもありません。

今後次の映画館の形態を模索しなければいけない状況になるでしょう。

このように映画ビジネスは脆弱な基盤の上に成り立っているのです。

いつまでも右肩上がりの成長を期待するのはやめたほうがいいのです。

では人口減少時代における映画ビジネスとはどういったものか?

それが私たちのビジネスモデルです。

観客が大量に動員できた時代であれば何もしなくてもいいわけです。

しかし不幸にも現在は国民の趣向が多様化し、大量動員は、一部の例外を除き、ほとんど不可能になりつつあります。

今後は想定された小規模のマーケットに向けて映画製作を行わなければならなくなってきます。

そのための戦略が私たちのビジネスモデルです。

いわゆるミニ・マーケット(※)のこと? 今でもあるよ。

※東京のミニシアターをメインに、全国のシネコンへと拡大公開させていくマーケットのこと。

いや違うのです。そもそも概念が違う。次元が違う。

ミニ・マーケットも実は大量消費時代の概念をもとにした展開方法なわけです。

それに反して、私たちのモデルは、小規模のマーケットでなければならないのです。

そして、従来の映画製作と比べて格段に利益効率が高いモデルなのです。

しかし、これを実行しようとすれば、現在の業界ではできない。

従来の常識にとらわれたシステムの中では、抜本的に破壊しようという勇気がないかぎり、不可能でしょう。

私たちがゼロから始めるのはこのためです。

ゼロから始めなければ実現できない大目標なのです。

筋肉質の私たちのモデルは人材を育成し、高品質な作品を提供します

インターネット、デジタルの時代に、大規模な映画ビジネスを志向する必要性は全くありません。

デジタル時代のツールと思考をもってすれば、大きなビジネスでは不可能であった効率的なビジネスができるのです。

あえて思考の転換をすればいいのです。

デジタルの時代ではターゲットを絞り、層の濃い市場を創造すれば、何十倍もの効果を発揮させることができるはずです。

結果として大規模なために分業していた業務を統合し、長期的な視野にたって事業を推進することができます。

そうして人材を積極的に育成できる環境を作ることができるのです。

私たちのビジネスモデルは、権利を含め、複雑な構造になってしまった映画ビジネスをもっと単純な構造にし、規模も小さく、リスクを軽減しようということが原点となっています。

従来は特権的な企業によって動かされてきた映画ビジネスが、今後は個人の力でも大きな流れを作ることができるはずだと確信しています。

映画というビジネスは水ものであるという考え方があります。

しかしこれは従来型のビジネスモデルで行ってきたからではないでしょうか。

不特定多数にむけた宣伝ではお客様の顔は見えません。

そうした大雑把なビジネスをやってきたことが、そうしたイメージを定着させたのではないでしょうか。

しかし低コストで映画製作ができるようになったいま、今までの常識に縛られる必要性はないのです。

大資本だけが儲かるしくみに加担する理由はなくなったのです。

それでも現状に満足しますか。あなたはどうお考えになりますか?

no. 13 常識を覆すビジネスモデル

さてここまでお読みになって言いたいことはわかる、では具体的にどうやるのだとお思いかもしれませんね。

それではとても重要なことを一つ言いますので、しっかりと頭に叩き込んでください。

映画を作る前に収益が上がるシステムを作る、です。

これがDDS、ダイレクト・デジタル・システムのダイナミズムです。

映画は通常制作を完了してから興行などを行うことで収益を回収するわけです。

しかし私たちの収益システムは映画を作る前に収益が上がるシステムなんです。

かつて大衆消費時代なら大量に観客を取り込めたからよかったのです。

しかし現在は多品種少量生産の時代にそんなシステムでは立ち行かなくなるのは当たり前ですよね。

これからはまず市場を作るんです。

そして市場に合わせて映画制作をしていく。これならば大量の宣伝コストがいらない。

いらないどころか、ほぼゼロです。

映画というのは興行だけの収益に依存するのはもったいないんです。

だから他業種に付け入る隙を作ってしまうんですね。

映画だけで取りこぼしなく収益システムを作れば充分に成立するんですよ。

撮影所システムが機能しなくなった時に移行すればよかったわけですが、まだ時期尚早だったのです。

インターネットが普及した今だからこそ可能になったシステムなのです。

私が37年前に気づいたアイデアです。やっと時代が追いついてくれました。

さてこの電子書籍もあと残りわずかとなりました。

これ以上のことをお知りになりたい方はぜひメルマガ登録をお願いします。

このDDSの正体を詳細に物語っていきたいと思っています。

21日間講座日本映画を再構築する。

おわりに

最後までお読みいただき、ありがとうございました。いかがだったでしょうか?

もしご意見・ご感想等があれば下記メールアドレスまでお寄せください。

ここに書かれていることは、現在の日本映画の問題点のほんのさわりにしかすぎません。

映画はその発祥から110年という長い年月が経過し、いろんな所に歪みが出てきています。

こうした欠陥構造が日本映画という偉大な芸術の明日への道を先に行かせまいと足を引っ張っている格好となっています。

映画芸術はまだ110年なのです。

他の芸術から比べれば、まだ始まったばかりの新しい芸術なのです。

黄金期をノスタルジックに語り、知ったかぶりで衰退産業だと断言するのは止めにしてほしいものです。

映画はまだ始まったばかりなのです!

もう過去の呪縛に捕われる必要はないのです。

ゼロから始めましょう。

私たちは新しい日本映画の創造に向けて、頑張りたいと思います。

もし、私たちのことにご興味を持たれたかたは、ぜひご連絡をくださいね。

今後も電子書籍を制作・発行していきますので、どうぞよろしくお願いします。

■本稿をご覧いただきましてありがとうございました。日本映画の新しい未来を創造するべく、斬新かつタブーなき言論・実践活動を展開させていきたいと考えています。今後の活動にご期待ください。

■ぜひこちらまで→ info@cinelavie.com メールください。ご意見・ご感想何でも結構です。必ずご返事さしあげますのでよろしくお願いします。

■ご批判等もあるかもしれませんが、単なる誹謗中傷の類いにはご返事いたしかねます。その際には今後の日本映画のための建設的なご意見をいただきたく、よろしくお願いいたします。

■現在は人員の募集を行ってはおりません。もしメールをいただけましたら、随時情報をメールでお知らせしますので、ぜひご感想等でも結構ですのでメールをお送りください。

■私たちのプロジェクトはその実現を保証するものではありません。いかなる事業においてもリスクはあるものです。当プロジェクトも同様ですが、日本映画を革新することを目的とし、実現にむけて最大限の努力をしていく所存ですので、どうぞ宜しくお願いします。

□映画プロモーター

□発行人:中川俊秀

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中川俊秀