日本映画の構造は他のエンターテイメント産業を潤すための仕組みだ。構造をリストラしクリエーターに利潤を流すシステムにすれば日本映画は復活する

2019年6月1日

日本映画の惨状は今に始まったことではない。

シネコンが普及する前夜、日本映画産業は危機的状況であったのだ。

平成8年(1996年)の数字は以下の通り。

入場者数119,575千人

スクリーン数1,828

公開本数598(内邦画278

興行収入148,870百万円

1995日本映画製作者連盟発表データより)

入場者は最盛期の十分の一までになっている。

入場者数169,210千人

スクリーン数3,561

公開本数1,192(内邦画613

興行収入222,511百万円

2018日本映画製作者連盟発表データより)

最悪期の25年前と比較してみれば、たしかに少し増加しているようではある。

しかし問題は制作本数の異常さだ。これでは収入が増えていない以上赤字が目に見えている。

つまり制作クリエーターに儲けが流れない、現在の構造ではいくら儲けてもそもそもクリエーターが潤うことは無理な訳である。

映画人にとって昭和33年の数字こそは夢なのであり、それがそもそもの原因なのだ。

昭和33年(1958年)の数字は以下の通り。

入場者数1,127,452千人

スクリーン数7,067

公開本数673(内邦画504

興行収入72,346百万円

(同データより)

これらの夢のような数字に囚われてきたのだ。再現はむりとしても少しでも近づきたい願望。

映画業界のトップは少し前まで映画人口を2億にしようとか言っていた。

高度経済型の現在の日本映画システムがすでに終焉しているという事実を日本の映画人はわかっていない。

かつて日本人は本当に映画を必要としていた。必要不可欠な娯楽だった。

娯楽の王様だった。

日本映画の黄金期はメジャー5社によって年間500本もの映画を量産していた。

質量とも世界に誇る日本の資産である。

しかし、いまの日本映画もまた異常な量産ぶりだ。昨年613本。

この中で歴史に残るのは何本だろうか。

日本人が1年間に映画館で鑑賞するのは1.1本。

いったい映画は誰のために作られているんだ?

すでに映画は映画館で上映するために作られているわけではない。

テレビで放送するため、ケーブルテレビのため、DVDにするため、レンタルにするため、、、

そのすべての産業を稼がせるために成り立っているんだ。

キラーコンテンツの名のもとに。

映画界は映画館や設備の充実に躍起となっているが、他にやることはないのか。

もはや映画産業は映画の魂を失っている。

映画が貢いできた上記の産業たちは不況にあえいでいる。

映画はもろともに死ぬのか。巨大戦艦大和のように。

インターネットはまだまだこれからなのに。映画は見放されていくのか。

もう数字ではない時代なのだよ。

高度経済的な数字に一喜一憂するのはやめよう。

発想の転換こそが必要なんだ。

日本映画が生きる道はただ一つ。構造を変えること。これしかない。

古い思考は古いことしか考えることはできない。しがらみから逃れることはできないのだ。

高度経済型の構造体質から水平展開型思考への転換である。

映画はキラーコンテンツである。

おそらくまだまだ映画の可能性は開かれてはいないと思う。

驚いたことに映画ビジネスはいまだに旧世代のモデルなのだ。

時代は目まぐるしく動いている。

情報化社会とは個人スタイルの進化である。

なぜ映画は見られなくなったのか?

メジャーが全国公開するという幻想がいまだに機能しているわけだ。

外国映画はそれでもいいと思う。

でも日本映画はもう時代遅れなんだな。

だいたい映画会社は映画に対する愛情なんて持ってはいない。仕事だからしている。

会社を経営しなくちゃいけないからしている。

それにいまの映画会社は映画を作ってはいない。

メジャーのオリジナル作品はごく僅かだ。

1971年に旧大映と旧日活が倒産し、映画は舵取りを転換しなければいけなかった。

撮影所機能は限りなく縮小し、製作機能を切り離すことになる。

日本映画の終焉は時間の問題であった。

それを救ったのは天才角川春樹のメディアミックス戦略だった。

1980年代は角川映画なくしては語れない。

その後シネコンの隆盛によって、日本映画の「終焉」はモラトリアムとなった。

この失われた40年を取り戻すためには構造を180度転換することである。

情報化社会での映画産業とは個人のビジネスへと変えることである。

つまりメジャーは解体される。

メジャーを稼がせるシネコンはいらない。

もしシネコンに生き残る道があるとすれば、独自にブランド戦略を発信することである。

もはや巨大権力(メジャー)に群がる構造はNOである。

たとえば個人とシネコンがつながる。

こうした動きが全国的に出現すれば日本の映画産業は活性化される。

入場料金の均一化も滑稽だ。

作品によって料金を決めればよい。

テレビやDVDなどのフロントエンド商品に成り下がっている映画。

全体の収益が減ったとしてもバックエンド商品を目指すべきだ。

テレビやDVDやネットを逆に利用して収益最大化を目指すのだ。

オリジナリティの復権。

こうした改革をしなければ日本映画は再生しない。

製作を含めたすべての権限を持つ個人が主体となれば日本映画は変わる。

個人の情熱・愛情が必要なのだ。

このような個人が増えることによって旧来の組織が瓦解する。

誰かが動き出さなければ何も変わらない。

日本には過去にも、現在にも、そうして未来にも桁違いの才能が眠っている。

構造がその可能性を奪っているならその封印を解いてみよう。

日本映画の時代が今そこにきているのである。

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Posted by cinelavie