映画でお金を稼いで豊かな生活をしていきたいあなたへ

もう大手映画メジャーの力学も必要もなく芸能事務所に所属することもなく、個人と個人が集い合うだけで映画が作れてしまう。副業をしながら自主映画を片手間にすることもない。誰かを頼ることもなく圧倒的な映画システムを構築することができる。制作会社に搾取される必要もないし。あなただけの独占的映画ブランドを構築してあなたのファンのために映画を作っていくことができる夢のようなシステム。

このページではその方法を余すところなく全てをお話ししようと思う。

日本映画の偉大なる全ての先達たちに捧ぐ

私たちが生きている2020年という現在は、とても歴史的な時間であると思います。

世界は変わる。
そうして、日本が変わる。

そんな瞬間を私たちは生きています。にもかかわらず大半の人々はそのダイナミズムな感覚を感じることができないのはなぜでしょう。

それは私たちの手の届かない、そうして目にすることのないところで、いままさに世界は変えられているからです。

世の権力が世界を変える。

それが私たちにとって良い方向であるのならば、とやかく言う必要はありません。

しかし、世の中は確実に私たちにとっては悪い方向へと向かっていっているように見えます。

たしかにこの世の中はものが溢れかえって、一見豊かな世界にはなりました。

しかし、幸福感はありますか。

もしかしたら欠乏感のほうが大きいかもしれませんね。

それはいろいろなものがあるけれども希望だけがない世の中だからではないでしょうか。

希望がないのに、ものがいっぱいあっても幸福になれるわけはないですよね。

大東亜戦争以前、奴隷制度というものがありました。

西洋列強は、アジア、アフリカを手当たり次第植民地化して、人々を奴隷にしていったのです。

それに似たようなことが現在でも水面下で行われています。

歴史は繰りかえす。

奴隷制度は撤廃されたけれども、資本主義社会というある意味お金のあるものとお金のないものとで貧困を生み出す奴隷システムが形を変えて今もいきているというわけです。

そうしたお金のある層のために社会は動かされているということに私たちは気づくことがまず先決です。

さて前置きはこれくらいにして。

私たちはこれから個人の新しい生活様式を取り入れて生きていこうとしているわけです。

奴隷制度の社会システムを逸脱して、新しいライフスタイルで生きていく。

コンテンツビジネスという名のもとに。

大衆社会はさまざまな娯楽を生み出しました。

そのうち、娯楽の王様とかつては言われた映画を対象として、これからは生きていく選択をしていきましょうという提案です。

映画というコンテンツビジネス。

映画もまたインターネットの恩恵をうけて、現在ほど映画が見られていることはなかった。しかし、これほど映画という歴史が埋もれてしまっている時代もなかったでしょう。

映画はもう死んでいる。

誰もがわかっているのに、誰も口にすることをしない。

そう、日本映画はすでに遺物です。

現在氾濫している映画というものはあたかもゾンビであるかのように徘徊跋扈しているわけです。

手塚治虫の「マグマ大使」に目覚めてみるとミュータントな世界になっていた。というようなことがありましたが、まさしく現在の映画は映画のように見えるもの、です。

でも、これはもちろん現在の映画のようなものを作っている方々を非難しているわけではありません。

なぜなら私の言っているのは、そもそも論として、カテゴライズの問題だから。つまり、それが、映画かテレビドラマかが重要なのではなくて、「動く絵」なのか「説明する絵」なのかがポイントだから。

かつての映画は活動写真と言われたように、物語なんかどうでもよく動けばなんでも良かったし、感動もし、面白かったわけです。

しかし、現在では動くのは当たり前で、なぜか物語を語るという方向になってきているわけ。

映画を語るのではなく、物語を語ることが映画鑑賞ということになっています。

もちろん物語はあればなおさら感動を引き起こすことは間違いない。

話が脱線しましたが、ここでは「日本映画の正しい軌道を再び取り戻す」ことを主題として書いています。

さらに個人が映画というコンテンツビジネスをどのようにして動かしていくのかを考えていこうという試みです。

これをもとにして実際私自身がコンテンツビジネスを立ち上げて結果を出すまでのプロセスともなっているので、ぜひ楽しんで読んでほしいと思います。

2020年、新型コロナウィルスの世界規模での蔓延で、わが日本人も行先の知らない世界のただなかで生きています。

緊急事態宣言、ロックダウンなどで行動が制限されるなかで、私たちは、これからどうやって生きていったらいいのか。

世界が変わる、いや変えなければいけない時を私たちは生きています。

三密(密閉・密集・密接)を避けなければいけない時代にあって、映画館、日本映画は滅びなければいけない運命なのか。

それともなにか他の新しい概念が生み出されていくのか。

こうしたパンデミック下において私たちの時代でどのように生きていくことが最良なのか。

ここでは私たち、そしてあなたのような日本映画を愛する人々、さらにいえば芸術で生きていきたい人々は今後どのように生きていけばいいのかを最大漏らさず記載していきます。

ここには希望のある未来が描かれています。

世の中はいまだ新型コロナウィルスの影響が甚大でいつ終息するかわからない状況です。

もしかしたら生きていくだけで精一杯なのに仕事とか考えられないという状況かもしれません。

「濃厚接触」が不可能となればリアルで仕事できないと途方にくれているひともいるでしょう。

映画館が存亡の危機となり、日本映画、映画そのものがなくなるという絶望に襲われているひともいるかもしれない。たしかにパンデミックはある意味私たち人類の生き方の方向性を修正する力を持っている。が、私たちの存在を揺るがすものではない。もしかしたら私たち人類は行き過ぎた面もあった。だから軌道修正も必要なのだと思うべきではないでしょうか。

世界何十万人と死んでいくなかで、生き残った私たちは、僥倖であると思うべきです。

わが日本は膨れあがった世界を尻目に、すでに人口減少時代に突入しています。

どうにもこの世界は数字の論理で物語ることが好きなようです。数が減る=不幸せになる、ことはないわけです。

資本主義社会はある意味において無駄を大量生産してきたともいえると思う。

なくてもいいものも生産する、欲望のままに無限大に消費するために。

不要不急でないもの、生活に必要不可欠ななものであることが、この新型コロナの時代では明確に振り分けられようとしているかのようです。

では芸術はいらないのかという命題ですが。

もちろん、NO!です。

なぜなら人間にとって何のために生きているのかという問いこそ人間のアイデンティティでもあるからです。

間違ってはならないのは、新型コロナ時代で突きつけられているのは、芸術そのものの存在ではなくて、芸術のあり方についてなのですよね。

日本映画は死ぬことはないのだし、もちろん映画そのものを否定することもないわけです。

それよりも大事なことは、日本映画は今までの状況がどうだったのかが問われているのです。

パンデミックが一つあれば木っ端微塵になる、映画館というものがそもそも今のようなもので良かったのかということでもある。

ワーナーマイカルが1993年にやってきてから27年もの間、映画館の革新はなかったといってもいいのではないでしょうか。シネコンが世界標準となっていた。それにあぐらをかいていたのは否めないでしょう。画一的な映画館に魅力を感じないひとも多いのではないでしょうか。かつての絵看板!のあった昔ながらの映画館が懐かしいひとも多いと思う。

が、いずれにしてもパンデミックが起こった以上、映画館もその対応策が求められるわけです。

で、私たちは今後生きていくなかでどのようにしていけばいいかを今から語ろうと思います。

これからの時代はどんどんあらゆる産業の構造がぶっ壊れていきます。

新型コロナウィルスはその後押しをするかのようにやってきたかのようです。

そろそろ時代の転換点に差し掛かったからこそ出現したのかもしれません。

あらゆる産業がぶっ壊れて、そうして再びリバースされる循環になる。

それで無駄なものは排除されてスリムな産業構造に変化していくことでしょう。

日本人は肥満な産業構造で無駄なものを排出しながら生きてきました。

だからいずれ近いうちに新陳代謝を余儀なくされようとするのも仕方ないことです。

それが今というわけです。

日本映画産業も同じ。

観客動員数も興行収入も増加しないのにも関わらず、もちろん多少の増加はあるが、構造を変えずに、他産業とつるむことで肥大化を試みてきたわけです。

醜い。

これからの時代は美しく生きることが要請されています。

だんだん日本人の価値観が進化しつつあるのも理解されるかもしれません。

さまざまな災厄を経験した日本人は、すでに資本主義社会の欺瞞を感じているはずです。

二極化の時代。

貧富ではなくて、美醜が問われる時代です。

美しく生きるひとが豊かになる時代と言い換えてもいいと思います。

では美しく生きるとはどういうことかといえば、分別を弁える、善悪を見極める、そして自分を生きるということです。

自分を生きる。

このほんと自明な事柄が理解できていないひとは多いと思います。

よくひとは幸せになりたいと考えると思う。

しかし、生まれてきたことを幸せに思わないとすればなんでしょうか。

今が不幸せだと思ってるとしたらもったいない話です。

日本人として生まれたことにまず感謝をしないといけない。

それくらい誰でもできるはずですよね。

だから願いなんていらない。

それよりも今あることを感謝するそれだけでいいのです。

私はコンテンツ・ビジネスを提唱していますが、日本人こそ芸術作品だと考えるからです。

日本人は今のまんまで美しい。

別に卑下することもないし、絶望することもない。

日本人として、らしく生きれば良いわけです。

さらにいえば日本人の存在じたいが芸術なんだから、人生そのものが芸術とも言えるわけです。

私がいつも日本人総芸術家の時代と言ってるのはそういうところです。

なので日本人はみんな芸術家として生きていけばいい。

資本主義社会の次は芸術主義社会でいいのではないでしょうか。

コンテンツ・ビジネスと「ビジネス」と名前はついていますが、実際、生きることと同義です。

1945年の大東亜戦争での敗戦で、日本人全てはPTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかったようなものだった。

そのあとの75年間、経済大国へと上り詰めたわけですが、日本人は本来の価値観とは違う畑を疾走してきたといえると思います。

日本は古来その精神性が尊ばれてきたお国柄ですから、やはりどうしてもうまくいかないのは当たり前でした。

戦勝国のアメリカによって敷かれたエコノミック・ロードです。

そろそろ日本人が甦る時がきているのではと、ここ30年にわたる日本の歴史を紐解いてもそう思います。

日本映画産業は50年前に死んでいた

日本映画は1971年という、日本万国博覧会が開催されて、日本がこれからという時に、構造は破綻していた。

映画は時代の先端を走っていた時代だから、すでにその兆候があったということです。

大手メジャーだった、大映と日活が倒産するという事態は、日本映画が斜陽といわれるようになったのと重なります。

上記二社は映画製作を積極的にやっていた。他のメジャーはすでに外部か、またはそれ以外の業態へと移行などしていた。

つまりこの二社は映画とともに滅んだといっても過言ではないでしょう。

映画産業はその凋落をテレビのせいだと考えていました。

しかし、映画産業が凋落したのには他の理由がありました。

それが、産業構造の欠陥という問題です。

映画はキラーコンテンツとも言われる。

ものづくり。

製作が中核となるはずのところだろう。

まさかコアを売り渡すだろうか。

コアとは魂である。

なぜAppleのブランド価値が高いのか。言わずもがなで、トータルプロデュースしているからです。

かつての日本映画産業の黄金期もそうでした。

圧倒的な価値があったのです。

いま溝口健二監督の『近松物語』を見るためなら1万円出しても行きます。

映画は独自のブランド価値を喪ってしまったのです。

映画館でみる映画と、スマホでみる映画は同じ。

誰もがそう思いたくなってもおかしくはないです。

ではこの【コロナ以後】の時代、それでは映画は、いや映画館は死滅するのか。

しかし、その予兆は今に始まったことではない。シネコンがやってきた時からわかっていたことだから。

かつての映画体験とは、映画作品×映画館という図式だった。

梅田スカラ座で観た黒澤明監督の『赤ひげ』は生涯忘れない。キャパ937席でたった10人の観客だったからではない^ ^

映画館と作品が掛け合わさると、そこには記憶のなかに「異常」空間が生まれて永久に刻まれるわけです。

映画体験とはそういうもの。

なので画一的なシネコンスタイルはそのこと事態で、映画の、もっといえば映画体験の死でした。

映画好きにはわかることです。

それからの映画興行は浮動層をターゲットにせざるを得なくなった。

もちろん当たればいいが、そうでないものは惨敗という、ここでも二極化は進行しました。

さらに追い討ちをかけたことは、映画があまりにも製作されすぎて、見たいひとにお届けできないミスマッチが起きていたことでした。

テレビや通信やスマホなどに提供することばかり考えて、数打ちゃ当たる精神で作り続けた結果です。

映画館に観客がいなくてもいい。あとで収益が回収されるのだから。

こうして映画館の存在じたいが疑問視されるところで今回のコロナで映画館は立ち行かなくなってしまったというわけです。

つまり映画館ていらないよね、という声があがってもおかしくはない状況となってしまったわけです。

もしかしたら『鬼滅の刃』の記録的な興行成績はその反動であったかもしれませんが。

日本映画産業には希望しかない理由とは

従来の産業は企業が担ってきました。

しかし、令和、特に【コロナ以後】の時代では、個人さらにいえばコミュニティがその代わりになっていくでしょう。

コミュニティとは連携と訳してもいいし、理想郷と言ってもいい。

私は同時多発的にコミュニティが勃発していくイメージを抱いています。

企業が瓦解しコミュニティで個人がつながる時代です。

サラリーマンという言葉も死語になる時代。

今までは東京に全てが一極集中し、あらゆる産業が東京に中枢を構えました。

これからはローカライズ、ドメスティックな世界になっていくことでしょう。

地方創生。

国造りともいえる。

日本映画産業はようやく構造を改革するチャンスが訪れたといえると思います。

日本映画はだめだとかいう論説にはもう与しないことです^ ^

希望しかないですよ。

明治維新から155年。ようやく日本にも令和革命が訪れたことを素直に喜びましょう。

人口減少や少子高齢化を問題視するひともいるかもしれない。

しかし、江戸時代は人口3000万人で推移した。

人口が減ったとしても8000万人おれば充分。

そうやってネガティブ思考を植え付けることを仕事にしている人々がわんさといる、これもシカトしましょう。

これからは内需拡大。産業拡大策を考えましょう。

中抜きもなし。

たとえば映画産業の配給システムは古い。半分以上はこの腐った構造で成立している。

それも要りません。

ドメスティックに全てを完結させていく。

新時代の醍醐味である、希望しかない。

僕らのマニフェストとは

今後10年で、私たちが実施する行動計画は次の三つである。

2025年の大阪万博で日本発のSF大作を製作し、同時に新しい規格外の映画館をお披露目する。大阪ベイエリアに中枢を据えた関西広域映画産業を展開する、さらに日本全国にもコミュニティを作っていく。九州の南の島を映画のみならず芸術家が集い、衣食住をともにする、制作工房「村」を建設する。

上記を完成した暁には現在の映画産業と互角かそれ以上の規模を目指す。

映画を仕事にしたい人のためのコミュニティ

いま、映画界で働きたいという奇特な方がいたとしても、残念ながら、その希望を満たす場所はありません。

もちろん映画会社はありますが、すでに映画会社がほとんど映画製作をしていない、あるいは他の業界と連携して製作しているわけです。自社だけで完結している映画はほとんどないといっていいでしょう。

もしかしたらテレビ業界にいたほうが映画を作るという点においては希望があるかもしれません。

つまり、現代にあって映画を作るということはそのような不確かな、あいまいな環境にあるといえると思います。

業界はすでに映画とか、テレビとか、の垣根がなくなり、エンタメ産業というものに収れんされていっている状況なのですね。

ではこうした状況のなかであえて映画を作ることにこだわるということは大層奇特であると言わざるを得ないわけです。

そこで今更ながら、映画とは何かということになるわけですが、私は映画とは物語、あるいは幻想であると考えています。

映画大好きな者たちの共同幻想こそ映画の魂だということです。社会とは違う、夢物語としての幻想体験、居場所だったのです。悲惨な現実だったとしても、そこには夢と希望があったのです。

しかし世の中は移ろい、テレビやいろいろな娯楽が出現して、映画は斜陽の時代を迎えることになります。

いまの映画には物語が、幻想体験はなくなりました。他のさまざまな娯楽と同じく娯楽の一つとしてあるだけです。

かつての映画会社はスタッフも俳優もすべて抱え込む、一つの文化の形態だったわけです。

現在の映画会社はエンタメ産業の一つの歯車でしかありません。それが世の中のトレンドなので仕方ありません。

いわゆる撮影所システムは人材を育成する教育機関でもありました。一つの社会、共同体だったのです。そこには物語が、幻想が、生まれていた。宗教の一種といっていい環境だったわけです。

映画を作るとはそういう文化の仕組みを作るということに他ならないのです。一本映画を作ったらいいというものではない。そういうことで満足したい方は現状のエンタメ産業の歯車として機能すればいいと思います。

しかし、少なからず現状が嫌な映画をこよなく愛する人々はこの文章に共感していただけると信じています。

本当に映画を愛する人々が満足して生きていくことのできる環境がこのコミュニティにはあります。現代では喪われてしまった、映画の幻想体験、かつての撮影所システムを代替仕組みこそ、このコミュニティなのです。