個人の時代の映画のあり方

映画は全くキラーコンテンツである。
おそらくまだまだ映画の可能性は開かれてはいないと思う。
驚いたことに映画ビジネスはいまだに旧世代のモデルなのだ。
時代は目まぐるしく動いている。
情報化社会とは個人スタイルの進化である。
なぜ映画は見られなくなったのか?
メジャーが全国公開するという幻想がいまだに機能しているわけだ。
外国映画はそれでもいいと思う。
でも日本映画はもう時代遅れなんだな。
だいたい映画会社は映画に対する愛情なんて持ってはいない。
仕事だからしている。
会社を経営しなくちゃいけないからしている。
それにいまの映画会社は映画を作ってはいない。
メジャーのオリジナル作品はごく僅かだ。
1971年に旧大映と旧日活が倒産し、 映画は舵取りを転換しなければいけなかった。
撮影所機能は限りなく縮小し、製作機能を切り離すことになる。
日本映画の終焉は時間の問題であった。
それを救ったのは天才角川春樹のメディアミックス戦略だった。
1980年代は角川映画なくしては語れない。
その後シネコンの隆盛によって、 日本映画の「終焉」はモラトリアムとなった。
この失われた40年を取り戻すためには構造を180度転換することである。
情報化社会での映画産業とは個人のビジネスへと変えることである。
つまりメジャーは解体される。
メジャーを稼がせるシネコンはいらない。
もしシネコンに生き残る道があるとすれば、 独自にブランド戦略を発信することである。
もはや巨大権力(メジャー)に群がる構造はNOである。
たとえば個人とシネコンがつながる。
こうした動きが全国的に出現すれば 日本の映画産業は活性化される。
入場料金の均一化も滑稽だ。
作品によって料金を決めればよい。
テレビやDVDなどのフロントエンド商品に成り下がっている映画。
全体の収益が減ったとしても バックエンド商品を目指すべきだ。
テレビやDVDやネットを逆に利用して収益最大化を目指すのだ。
オリジナリティの復権。
こうした改革をしなければ日本映画は再生しない。
製作を含めたすべての権限を持つ個人が主体となれば 日本映画は変わる。
個人の情熱・愛情が必要なのだ。
このような個人が増えることによって 旧来の組織が瓦解する。
誰かが動き出さなければ何も変わらない。

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