コロナ禍で自由に生きるライフスタイルを考えてみる

2020年はコロナウイルスの蔓延の年として記憶に残るだろうが、それ以上にひとのライフスタイルを変えた1年であったと言える。
それまでも人類は二極化が進行して富めるものと富まざるものとに分かれてしまっていた。
お金があるところにお金は集まり、お金のないところにはますますお金が欠乏していく状況が顕著となった。
日本人は古来清貧として貧しいものは美しいと考えてきたが、そうしたものも現代では通用することはない。
貧しさは犯罪や自殺を助長し、凶悪犯罪も増加しているようである。
企業からリストラされて失業者は増える、案の定、生活保護世帯が増えていく。
貧しさからは貧しさを増幅させるしかない。
日本人古来の美しい生き方は現代ではどんなものだろうかと疑わざるをえない。
そうした最中のコロナウイルスの発生であった。
コロナ禍は日本人の、人間のライフスタイルを根底から変革を促したのであった。
働くとはいったいなにか。どのように生きていけばいいものだろうか。
日本人はますます働く場所を閉ざされていくのをただ呆然と見守るしかできないのか。
私はそうは思わない。
日本人の潜在的力とはこんなものではないと思う。
世界の経済大国にはなったけども、これはある意味幸運なタナボタであった。
日本人本来の居場所ではなかったのだ。
だから陥落を余儀なくされた。でもそれでよかったのだ。
コロナ禍はそれを気づかせてくれた。そう思うことにしよう。
日本人には日本人の、富める居場所がある。
それが、私の考える日本の未来だ。
日本人はもっと豊かにならなければいけない。
日本人の潜在能力は充分に発揮された時、唯一無二の国家として君臨するに違いない。
明治維新以来150年で日本はここまできた。
50年、100年の単位で考えなければいけない重要な事柄なのである。
あなたが変わるか変わらないかという素朴な質問からすべては始まる。
あなたが変わらなければ日本も変わらないし、世界も変わることはない。
かつて日本という国家は世界史史上奇跡をやってのけてきた。
その一つが、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、日本が主張した、「国際連盟規約」中に人種差別の撤廃を明記するべきという、「人種的差別撤廃提案」であった。また一つはその結果としての大東亜戦争であった。
今が時代の変わり目なのである。
私たちは働くことを再考することを余儀なくされている。
つまり本当に働かなければいけないのか。
コロナウイルスはそれを顕在化させたわけである。
企業はますますリストラを行い、人間よりもAIが社会の軸になろうとしているが、はたして人間の価値とはそもそもいったい何かが問われている。
いやいや働いていた人間は数多くいたに違いない。
自殺や失踪の増加はいったい何を意味するのか。
人間はそろそろ働くことを含めてライフスタイルを変革させていかなければいけない過渡期を迎えているのである。
もう企業に依存するのはやめよう、社会や国家に従属するのもやめるのである。
個人として生きていくのである。
誰の目も気にすることもない。
あなたは好きなように生きればいい。
これからのライフスタイルとはあなた自身が芸術となる活動を行うことをいう。
日本民族ほど芸術と親名性のあるものはない。
であるならば日本人は芸術となることがその居場所なのである。
経済で世界の大国にはなったものの頭打ちとなったのは日本人の柄にあわなかっただけのことである。
日本人は芸術大国になるにふさわしい民族なのである。
であるから、あなたも芸術品として生きることを選択するべきなのである。
かつて日本映画は経済効率の前に屈服したも同然であった。
もし映画が独自な生き方をしていれば今頃は違ったものとなっていたであろう。
少なくとも現在のようにデジタル革命に巻き込まれることもなかったわけである。
コロナウイルスによって映画館の存亡が問われる。
しかしながら映画館こそは映画の魂である。スマホでみる「映画」は映画ではないと野暮なことをいうつもりは毛頭ない。
それはそれだ。
映画館そしてそれにまつわるシステムの革新こそ映画の独自性なのである。
日本映画は経済効率を目指してきたがゆえに、いまだにブルーオーシャン市場が現前に広がっているのである。
日本映画の未来には希望しかない。

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